牡蠣エキス、缶入り清涼飲料水製造 楠原壜罐詰工業株式会社
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創業者 楠原政之助の生涯
田中多蔵、ツネの三男として 生まれる。
母の実家である楠原家の養子となる。
実家を出て、父方祖父が経営する履物店(広島市南区京橋町)で店員として働く。
広島市初のマッチ工場で工員として働く。
自立して食料品や雑貨の行商を始める。
商売の勉強の為、大阪心斎橋の武田安三郎雑貨店で住込み店員として働く。
一端広島に戻るが、漬物を習うために再び大阪天満橋の中村漬物店で住込みで働き、漬物の仕込みを研究する。
さらに、佃煮の製法や缶詰製造の技術を習得するため難波の缶詰工場へ通う。そして長崎へ行きフランス人から漬物の壜詰め、缶詰めの製造方法を教わる。
10年ぶりに広島の親の家(中区榎町)に帰る。
佃煮、漬物の壜缶詰製品の製造販売業を創業。
熊本で漬物の壜詰製造を習う。
親の家で漬物佃煮の壜詰めを製造し、行商。販路は主に九州・中国・四国・呉。(広島における佃煮・漬物の壜缶詰食料品販売の始まりとされる。)
河原町に家を持ち行商の拠点として、「楠原政之助商店」の看板を掲げる。
行商主体で相当な利益を得る。河原町で事業所を開設する為広島市役所に営業願いを提出し、納税を始める。
壜詰工場の第一号工場を広島市内(新市)に建設。
実家を拡張して第二工場を建設。(榎町)
同敷地内に広島初の漬物店を開店。
第三工場を建設。(佃煮の壜詰工場)
日露戦争 勃発。
佃煮が軍需品の保存携行食として脚光を浴び、生産を大きく伸ばす。
日露戦争後の不況に耐え、最高利益を達成。
長男 森太郎(二代目) 誕生。
榎町の第二工場を閉鎖。白島町(約1千平方メートル)の土地を購入し、新第二工場を建設。
漬物製造の主力工場とすべく、現在の広瀬町に土地を購入して大規模な第四工場を建設。
中広町と天満町に土地を購入して、味噌工場と壜詰工場を建設。
蒸気釜装置の特許を取得。
「楠原政之助商店」を合名会社として、代表社員に長男森太郎就任。
本社を榎町に置き、四工場、三店舗を設け、漬物・味噌・佃煮壜缶詰の製造販売の新体制を発足。
満州、朝鮮、ハワイ、北米など販路拡大。
貴族院多額納税議員選挙の資格獲得。
広島市より実業功労者として表彰され銀杯を授与される。
広島市安佐南区祇園の安神社に大鳥居を寄贈する。
森太郎に長男信作(三代目)誕生。
森太郎に次男 敏正(元会長)誕生。
8月6日 原子力爆弾の投下により工場、店舗すべて倒壊、焼失する。
広島市の西部の井口に疎開していて一命を取り留める。
西観音町の自宅にて死去。
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